人の上をいく技術を身につけようと思ったら、バカになること。
そうでなかったら、修羅場で踏ん張る気力なんか得られない。
稲尾和久(神様・仏様・稲尾様と言われた名投手)
稲尾氏は、昭和12年、大分県別府市に生まれる。漁師の家庭で、幼い頃から漁に出されていた。強靭な足腰は、この時に養われたと言われている。
大分県立別府緑丘高校から西鉄ライオンズに入団。入団当初は注目されておらず、三原監督も「稲尾はバッティング投手として獲得した。」と公言していた。打撃練習時、4球のうち1球はボールを投げるよう指示されたが、その一球をストライクゾーンのコーナーギリギリを狙って投げる練習をし、制球力を磨いたという。結果的に入団1年目から21勝6敗、最優秀防御率と新人王のタイトルを獲得した。昭和32年にはプロ野球記録となるシーズン20連勝を記録するなど35勝をあげ、史上最年少でのリーグMVPに選出。昭和33年にも33勝で、史上初の2年連続MVPを獲得した。
読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは第1戦を稲尾で落とし、第2戦も敗退、第3戦も稲尾で落として3連敗となった。しかし翌日、雨で順延となった第4戦、三原監督は、また稲尾を先発に立てて初勝利する。第5戦にも稲尾は4回表からリリーフ登板し、シリーズ史上初となるサヨナラ本塁打を自らのバットで放ち勝利投手となった。そして後楽園球場での第6・7戦では、2日連続完投勝利し、逆転日本一を成し遂げた。優勝時の地元新聞に「神様・仏様・稲尾様」の見出しが躍った。昭和34年にも30勝で、3年連続30勝を記録し、「野武士軍団」と呼ばれた西鉄黄金時代の中心選手として活躍した。
昭和36年に記録したシーズン42勝はヴィクトル・スタルヒンに並び史上最多タイの記録である。